エリーの一日は、いつも音から始まる。
朝一番の打ち合わせと、リハーサル。
スタジオは広く、天井が高い。
アンプの唸り。
ドラムの小さな打音。
その混ざり合いが、空気をゆっくりと押し上げていく。
指示は短く。
冗談は少し。
場の流れは悪くない。
けれど、エリーの意識は、どこか別の場所にいた。
──昨夜の、あの青年。
名前を思い出しかけて、やめる。
思い出す必要などないはずなのに、
胸の奥で、まだ何かが音を立てていた。
リハーサルの合間。
短い休憩に、エリーはギターを手に取る。
昨夜、自然に形になった旋律。
弦を軽く弾いた瞬間、周囲の空気が変わる。
「……それ、新曲?」
「いいじゃん。すごくいい。」
小さなどよめきが走った。
エリーは曖昧に笑い、もう一度だけ音を鳴らす。
旋律は、静かに整っている。
弦の温度が、そのまま音になっていく。
──でも。
何かが、足りない。
音はある。
けれど、昨夜の“もうひとつの呼吸”が、どこにもいなかった。
エリーは、それ以上弾かなかった。
「……続きは、あとで。」
そうとだけ言い、リハーサルへ戻る。
同じ頃、翠はホテルのエントランスを出ていた。
タクシーに乗り込み、行き先を告げる。
窓の外は、すでに朝の音になっている。
部屋に戻ると、足元に、小さな温度がそっと触れた。
その気配に近づくと、シュガーが静かに寄ってくる。

「……ただいま。」
水を入れ替え、カリカリを皿に落とすと、
シュガーは前足をそっと肘に乗せ、小さく声をひとつ落とした。
妹が勝手に名付けた猫だ。
「……はいはい。」
翠は少しだけ笑い、シャワーを浴びる。
コーヒーを淹れ、ピアノの前に座る。
鍵盤に触れる直前、指が少し止まった。
昨夜のギターの旋律。
その上に重なった、自分の鼻歌の残響。
音を、置いてみる。
──指先が、そこで止まらなかった。
音は形になるのに、胸の奥の温度だけが追いついてこない。
翠は、今朝目にした譜面を思い出す。
あの旋律を、そっとなぞるように弾いた。
リビングに、温かい光が差し込むような感覚。
包まれるような、与えられる音。
翠は、ためらいのように指を離した。
「……エリー……か。」
ふいに零れた名前に、自分でもわずかに驚く。
そういえば。
メモに、そう書かれていた気がする。
それ以上は考えない。
カップを持ち上げ、別の作業へ意識を戻す。
旋律と名前が、まだ静かに胸の奥で重なったまま。
同じ朝。
同じ音を、それぞれが、別の場所でほどきながら。
まだ、
ふたつの音が重なる気配は、
どこにも、生まれていなかった。

