森の瞳と虹の聲

La voix entre l’ombre et la lumière

La voix entre l’ombre et la lumière

Chapitre IV

それぞれの朝、足りない音

それぞれの朝、足りない音

光がほどける朝      二人のあいだに        触れない音が淡く響く

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エリーの一日は、いつも音から始まる。 朝一番の打ち合わせと、リハーサル。 スタジオは広く、天井が高い。 アンプの唸り。 ドラムの小さな打音。 その混ざり合いが、空気をゆっくりと押し上げていく。 指示は短く。 冗談は少し。 場の流れは悪くない。 けれど、エリーの意識は、どこか別の場所にいた。 ──昨夜の、あの青年。 名前を思い出しかけて、やめる。 思い出す必要などないはずなのに、 胸の奥で、まだ何かが音を立てていた。 リハーサルの合間。 短い休憩に、エリーはギターを手に取る。 昨夜、自然に形になった旋律。 弦を軽く弾いた瞬間、周囲の空気が変わる。 「……それ、新曲?」 「いいじゃん。すごくいい。」 小さなどよめきが走った。 エリーは曖昧に笑い、もう一度だけ音を鳴らす。 旋律は、静かに整っている。 弦の温度が、そのまま音になっていく。 ──でも。 何かが、足りない。 音はある。 けれど、昨夜の“もうひとつの呼吸”が、どこにもいなかった。 エリーは、それ以上弾かなかった。 「……続きは、あとで。」 そうとだけ言い、リハーサルへ戻る。 同じ頃、すいはホテルのエントランスを出ていた。 タクシーに乗り込み、行き先を告げる。 窓の外は、すでに朝の音になっている。 部屋に戻ると、足元に、小さな温度がそっと触れた。 その気配に近づくと、シュガーが静かに寄ってくる。
「……ただいま。」 水を入れ替え、カリカリを皿に落とすと、 シュガーは前足をそっと肘に乗せ、小さく声をひとつ落とした。 妹が勝手に名付けた猫だ。 「……はいはい。」 翠は少しだけ笑い、シャワーを浴びる。 コーヒーを淹れ、ピアノの前に座る。 鍵盤に触れる直前、指が少し止まった。 昨夜のギターの旋律。 その上に重なった、自分の鼻歌の残響。 音を、置いてみる。 ──指先が、そこで止まらなかった。 音は形になるのに、胸の奥の温度だけが追いついてこない。 翠は、今朝目にした譜面を思い出す。 あの旋律を、そっとなぞるように弾いた。 リビングに、温かい光が差し込むような感覚。 包まれるような、与えられる音。 翠は、ためらいのように指を離した。 「……エリー……か。」 ふいに零れた名前に、自分でもわずかに驚く。 そういえば。 メモに、そう書かれていた気がする。 それ以上は考えない。 カップを持ち上げ、別の作業へ意識を戻す。 旋律と名前が、まだ静かに胸の奥で重なったまま。 同じ朝。 同じ音を、それぞれが、別の場所でほどきながら。 まだ、 ふたつの音が重なる気配は、 どこにも、生まれていなかった。
エリーの一日は、いつも音から始まる。 朝一番の打ち合わせと、リハーサル。 スタジオは広く、天井が高い。 アンプの唸り。 ドラムの小さな打音。 その混ざり合いが、空気をゆっくりと押し上げていく。 指示は短く。 冗談は少し。 場の流れは悪くない。 けれど、エリーの意識は、どこか別の場所にいた。 ──昨夜の、あの青年。 名前を思い出しかけて、やめる。 思い出す必要などないはずなのに、 胸の奥で、まだ何かが音を立てていた。 リハーサルの合間。 短い休憩に、エリーはギターを手に取る。 昨夜、自然に形になった旋律。 弦を軽く弾いた瞬間、周囲の空気が変わる。 「……それ、新曲?」 「いいじゃん。すごくいい。」 小さなどよめきが走った。 エリーは曖昧に笑い、もう一度だけ音を鳴らす。 旋律は、静かに整っている。 弦の温度が、そのまま音になっていく。 ──でも。 何かが、足りない。 音はある。 けれど、昨夜の“もうひとつの呼吸”が、どこにもいなかった。 エリーは、それ以上弾かなかった。 「……続きは、あとで。」 そうとだけ言い、リハーサルへ戻る。 同じ頃、すいはホテルのエントランスを出ていた。 タクシーに乗り込み、行き先を告げる。 窓の外は、すでに朝の音になっている。 部屋に戻ると、足元に、小さな温度がそっと触れた。 その気配に近づくと、シュガーが静かに寄ってくる。
「……ただいま。」 水を入れ替え、カリカリを皿に落とすと、 シュガーは前足をそっと肘に乗せ、小さく声をひとつ落とした。 妹が勝手に名付けた猫だ。 「……はいはい。」 翠は少しだけ笑い、シャワーを浴びる。 コーヒーを淹れ、ピアノの前に座る。 鍵盤に触れる直前、指が少し止まった。 昨夜のギターの旋律。 その上に重なった、自分の鼻歌の残響。 音を、置いてみる。 ──指先が、そこで止まらなかった。 音は形になるのに、胸の奥の温度だけが追いついてこない。 翠は、今朝目にした譜面を思い出す。 あの旋律を、そっとなぞるように弾いた。 リビングに、温かい光が差し込むような感覚。 包まれるような、与えられる音。 翠は、ためらいのように指を離した。 「……エリー……か。」 ふいに零れた名前に、自分でもわずかに驚く。 そういえば。 メモに、そう書かれていた気がする。 それ以上は考えない。 カップを持ち上げ、別の作業へ意識を戻す。 旋律と名前が、まだ静かに胸の奥で重なったまま。 同じ朝。 同じ音を、それぞれが、別の場所でほどきながら。 まだ、 ふたつの音が重なる気配は、 どこにも、生まれていなかった。