二月の東京。
冬の冷えた空気は澄みきっていて、
夜空は深く、黒かった。
その中央に、
輪郭のはっきりした満月が浮かんでいる。
白く、冴えた光。
音が、遠くなる。
街は眠っていないはずなのに、
この夜だけは、どこかに余白があった。
──音が、生まれる前の。
翠は、夜の歩道をゆっくりと歩いていた。
耳に届く都会の音は少なくない。
車の走行音、
遠くの笑い声、
靴底の乾いた響き。
彼は、それらを「雑音」とは捉えない。
一つ一つが、内側でほどけていく。
気づけば、流れになっている。
それは癖というより、呼吸に近い感覚だった。
けれど今夜は、
どうしても残る音がある。
シュガーが発した、
短い「にゃ」という鳴き声。
旋律ではない。
リズムですらない。
なのに、
その小さな音だけが胸の奥に引っかかり、
離れなかった。
まるで何かが──
自分の中へ入り込む前触れのように。
翠は歩みを緩め、ふと立ち止まる。
顔を上げると、
満月が視界いっぱいに広がった。
思ったより、近い。
理由は分からない。
ただ、行く先だけは分かる。
彼はそのまま、公園の方へ歩き出した。

同じ頃。
エリーもまた、夜の東京を歩いていた。
「……公園は、確かホテルの方だったよな」
独り言のように呟きながら、道を確かめる。
細い道、
広い道。
夜中だというのに、
車も人も途切れない。
明かりが消えない街。
視界の端に、東京タワーの赤が入る。
それだけで、胸の奥がざわついた。
──おれは、黒が好き。
──暗闇が、好き。
そう思い込むように、言葉を並べる。
明るい場所は、落ち着かない。
暗闇の方が、まだ、ましだ。
だから黒を着る。
だから、強く見せる。
どうでもいいことを考えていないと、
何かがずれてしまいそうで、落ち着かない。
けれど──
あの音を聴いてから、
思考が奥へ奥へと引きずられていた。
触れないようにしてきた場所。
自分でも見ないふりをしてきた、本性の奥へ。
そうして、エリーは公園に着く。
街の喧騒が遠のいたような、夜の静けさ。
月明かりが、地面に淡い影を落としている。
そのときだった。
公園の反対側に、白い影が見えた。
白い、ボリュームのあるアウター。
華奢で、儚げで、
それなのに、
どこか整った気配の青年。
視線が、合う。
一瞬で分かる。
──あいつだ。

