「……おい。大丈夫か」
何度か声をかけても、青年は目を開けなかった。
呼吸はある。
熱も、異常に高いわけじゃない。
けれど、力の抜けきった体は、ひどく軽く感じられた。
救急車。
警察。
一瞬よぎる。
「……とりあえず、な」
そう呟いて、エリーは青年を抱き上げた。
都心のレジデンス機能を備えたホテル。
広いが、過剰ではない。
音が吸われるように静かな部屋だ。
ベッドに寝かせると、
青年は小さく身じろぎをしたが、目は覚まさない。
サングラスを外す。
長い睫毛の影が、頬に落ちる。
寝息は乱れていない。
テーブルにそれを置く。
指先に、わずかな体温が残っている。
「……ほんと、変な夜だ」
それだけ言って、エリーはバスルームへ向かった。
シャワーを浴び、髪を拭く。
濡れたままのプラチナブロンドを後ろで束ねると、
頭の中がようやく静かになる。
簡単な食事を作る。
慣れた手つきで、キッチンに立つ。
振り返る。
眠ったままの呼吸がある。
それを確かめてから、火を点けた。
小さな鍋を火にかける。
玉ねぎと、じゃがいもだけ。
切って、落とし、水を足す。
強い香りは立たない。
湯気だけが、静かに上がる。
コーヒーを淹れ、
マグをひとつ、テーブルに置く。
ベッドの方を見る。
眠っている。
穏やかで、深い眠りだ。
エリーは、ギターを手に取った。

最初は、探るように。
次に、確かめるように。
指が弦に触れた瞬間、
あの夜の空気が、静かに戻ってくる。
——そうだ。
音は、自由に流れ、
空へ向かって伸びていく。
明るさの奥で、影がわずかに揺れる旋律。
ふと、
さっき肩に触れたときと、
どこか似ていると思う。
柔らかく、逃げない。
けれど、掴みきれない。
気づけば、音は自然に膨らんでいた。
足りないところに音が生まれ、
重ねるほどに輪郭が見えてくる。
エリーは紙を引き寄せ、
ラフな譜面を書き留めた。
整っていない線。
仮の記号。
タイトルは、まだない。
それでも、
この曲は確かに、息をしていた。
いつの間にか、
エリーはソファーに体を預けていた。
ギターは手の届く場所に置いたまま。
月の光が、窓から淡く差し込んでいる。
ベッドの方を見る。
翠は、
まるで音の続きを、夢の中で聴いているみたいだった。
その胸が、ゆっくりと上下する。
夜は、何も急がない。
エリーは、そのまま目を閉じた。
この夜が、
何を連れてくるのか——
まだ、知らないまま。

