──暗い。
深い井戸の底にいるような感覚だった。
湿りを含んだ、冷たい石。
息をすると、胸の奥で音が鈍く反響する。
そこに、何かがいる。
泣いているのかどうかも、はっきりしない。
ただ、目を逸らせない感覚だけがあった。
手を伸ばそうとすると、その上に、月があった。
逃げ場のないほど近く、淡く、静かに、
その場だけを照らしていた。
──音がした。
弦が、そっと触れ合う音。
それは泣き声をかき消すようでも、慰めるようでもなく、
ただ、そこに在る音だった。
「……っ」
翠は、息を吸って目を開けた。
まだ明けきらない光だけが、部屋の形をつくっていた。
体を起こそうとして、頭がふらりと揺れた。
──夢。
そう思いながらも、胸の奥に、ギターの余韻だけが残っている。
部屋に、誰の気配もない。
代わりに、かすかに、温かい匂いがした。
ベッドの脇のテーブルに、一枚の紙が置いてある。
走り書きの、フランス語。
« La soupe t’attend. — Élie »
(スープが、君を待っている。エリー)
翠は、その文字をしばらく見つめてから、
静かに視線を逸らした。
「……帰ろう」
声は、思ったより掠れていた。
身支度を整え、ドアに向かいかけて、足が止まる。
空腹だった。
昨夜から、何も口にしていないことを、体が遅れて思い出す。
キッチンに置かれた小さな鍋。
蓋を取ると、白い湯気が、ふわりと立ち上った。
温め直して、スプーンですくう。
一口。
──温かい。
胸の奥で、何かが、ほどけた。
それが何かは、分からない。
翠は、黙って、最後まで飲み干した。
ふと、リビングのテーブルに目がいく。
紙が散らばっている。
整っていない線。
仮の記号。
ラフな譜面。
けれど──
翠は、立ち尽くした。
これは、
自分の音じゃない。

熱を含んだ旋律だ。
けれど、
強く吹くはずの風が、
やさしくほどけている。
理解してしまった。
この音は、
自分の中だけでは、閉じない。
ペンを取り、譜面の余白に、短く書く。
「スープ、ありがとう。」
それだけ。
名前も、言葉も、添えずに。
部屋を出る前、翠は一度だけ振り返った。
朝の光の中に、昨夜の音の名残が、
まだ、かすかに残っている気がした。
ドアを閉める。
外は、雨上がりだった。
濡れたアスファルトに光が反射し、空には、淡い虹がかかっている。
翠は、何も言わずに歩き出した。
──まだ、名前を持たないまま。

